歴史的に見たドイツの製造業・工業力の強み

自動車、機械、化学、製薬、精密機器・・EU域内最大の経済大国ドイツを支えるものは、その高い技術力に裏打ちされた工業力であることはよく知られています。日本でもよく名前の知られているベンツやポルシェ、ボッシュ、シーメンスなどがすぐに頭に浮かぶことと思いますが、それ以外にもドイツは中小企業がニッチマーケットの高いシェア率を持つ「Hidden Champion」であることでも知られており、ドイツの貿易黒字を支えています。
さて、そんな工業力に優れたドイツですが、どのような歴史的背景からこのような技術立国になったのかご存じでしょうか?今回の記事では、ドイツの近代化の歴史と共に偉大な技術力を誇るドイツの製造業の背景に迫ります。

ドイツの産業革命前夜

19世紀以前のドイツは、ヨーロッパのその他の列強に比べ産業革命と中央集権化が遅れていた地域と言えます。その理由として、当時の地図を振り返れば一目瞭然ですが、統一国家であったフランスやイギリスと異なり、神聖ローマ帝国内(現在のドイツにあたる)の地域はヴェストファーレン条約の結果として、長らく300以上の領邦国家に分断された状態であったことが挙げられます。

要するに、こうした領邦国家を越境するたびに商人に関税と手間がかかる状態にあり、個々の領邦国家内での職人技術や工芸技術は進歩を遂げたものの、国家経済としての合理性を生み出すに足りない状況が続いていました。日本で言えば東京から福岡まで、県をまたぐたびに関税と関税手続きが発生するような状態だった、と言えば分かりやすいかも知れません。また、通貨の決済システムもばらばらで、貿易をおこなうためのデメリットが多数混在していました。

19世紀、こうした分断状態だったドイツに変化をもたらす出来事が起こります。まず、ナポレオンの登場による、神聖ローマ帝国の解体とフランスの傀儡政権であるライン同盟の発足です。この歴史的なイベントにより、瀕死の重病人状態であった神聖ローマ帝国は名実ともにこの世から消滅することとなりました。ナポレオンはライプツィヒの戦いとそれに次ぐワーテルローの戦いで敗れ、ライン同盟も解散されますが、結果としてドイツ領邦たちに統一経済の導入と、国民意識の土壌を芽生えさせることとなりました。

ワーテルローの戦いから約20年後の1834年、こうしたドイツ国外の脅威から領邦諸国を守るためにはより集権化された経済システムが必要であるということで、ドイツ関税同盟(Zollverein)が成立します。この経済システムの導入により、イギリスより一世紀遅れていると揶揄されたドイツの工業化が一気に促進され、また40年後に控えるドイツ国家成立の下地が作られることとなりました。

鉄道とドイツの工業化

ドイツの産業革命を語るにあたって「鉄道網の発展」が欠かせません。分断された領邦国家であったドイツの経済合理化のためには輸送インフラの整備が急務であり、そのためにドイツ領域全土を張り巡らせる膨大な鉄道網の建設がおこなわれたのです。

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1850年以降に発生したと言われるドイツの産業革命と工業化のプロセスは、この鉄道インフラの整備とともにおこなわれることとなりました。すなわち、鉄道を建設するにあたって必要となる石炭・鉱石の発掘技術(主にルール工業地帯)、発掘された資源を鋳造するための金属加工、そして鉄道の動力となる機械工学などが同時並行的にドイツの工業化をもたらすこととなったのです。

日本の明治維新同様、ドイツは当時工業化の最先端をいくイギリスから技術者を雇い、鉄道技術の吸収に努めます。レール、車両、ホイール、動力・・こうした製造部品に付随して、資本を動かす銀行や保険の需要も発生し、ドイツの金融業が発展します。こうした鉄道に付随する工業や金融業は、現代に至るドイツの産業の下地として今も受け継がれています。

また、ドイツの鉄道網は、ドイツ統一の原因ともなる普墺戦争・普仏戦争でも兵員の輸送をスムーズにし、短期間での勝利に貢献しました。これらの戦争の結果、プロイセン主導の元「ドイツ帝国」が誕生することとなります。

これら一連のドイツ統一の立役者の一人であったビスマルクは保護貿易推進者としても有名で、ドイツの製鉄産業を外国の競争から守り育てるため、鉄と一部の農業品に対し関税を設け、自由貿易主義者と対立することとなります。一部経済学者の間ではこの保護貿易政策がイギリスやアメリカの安価で高品質な製品から自国産業を守り、後にドイツ製鉄業を世界トップに押し上げたと示唆しています。

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二つの大戦と現在のドイツ戦後復興

最も、急速に発展したドイツとドイツの産業構造は、いくつかの危うさを秘めていました。ヴィルヘルム2世の領土的野心はイギリスの警戒心を煽り、結果的に第一次世界大戦で主要国を敵に回して敗戦国となりました。

また、海外植民地をほとんど持たないドイツ経済は輸出に依存しており、海外の製品需要が絶たれた世界大恐慌の中で混乱を極めます。その混乱の中で台頭したナチス政権によってドイツは第二次世界大戦にも破れ、国土は二度にわたり荒廃することとなりました。

戦後、ドイツの海外領土は失われ、鉄道インフラや特許、国外工場なども消滅することなり、加えて熟練の技術者や研究者がソ連やアメリカに流出するという大きなハンデを抱えることとなります。また、ドイツの製鉄量は限定され、ソフト・ハード部分でドイツ産業の形骸化が図られることとなりました。

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もっとも、アメリカとソ連の対立が決定的になるとドイツに追い風が吹き始めます。マーシャルプランによって西ドイツへの経済援助がおこなわれはじめると、ドイツの経済状況は好転し始め、1950年には既に戦前の賃金水準を上回るほどに産業が回復しました。こうした戦後の復興期、現在我々の知る多くのドイツ企業(シーメンス、アウディ等)が東ドイツから西ドイツに本拠地を移し、地域の工業化を促進することとなりました。

21世紀現在、経済大国として知られるドイツですが、その背景には長い間培われた高い知識と職人技術があったことは自明でしょう。バラバラに分断されていたこうした人的リソースが、ドイツ統一、鉄道網の発展という歴史的イベントによって統合され、高い工業力を生み出す原動力になったとされています。




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